Not Entertainment But Empowerment and so on
12月 4th, 2011 by admin映画「渋谷ブランニューデイズ」試写会の感想に、ようやく目を通すことができた。「完成披露」と謳いつつ、実はまだチョコチョコと手直しをしている状態なので、踏ん切りついたとは言いがたい。が、何か自分のあり方というものがハッキリした。やっぱり俺はエンタテイメントとしてのドキュメンタリーが大嫌いだ。
文芸評論の対象としてドキュメンタリーを観る風潮や、フジの「これが世界の戦場だ」みたいな、ヒサンなものを安全なお茶の間で見るような感覚がさ。
あまりにスノビッシュなんだよ。
やはり(社会問題を扱う)ドキュメンタリーは、問題を視聴者が共有するようなものじゃないと。自らを振り返ると、いつも思ってきたのは、まずはどうやって取材対象を「地続きのもの」として見せるかってことだった。紛争地で私小説を作った「Dialogue in Palestine」はそういう意味でかなり苦労した上で、なんとか観客に共感を得られて、ビクターの賞をいただくことになった。
もう一つ大事にしてきたことは、エンパワメントだったと思う。自分はセラピストではないので、そういう表現を今までずっと控えてきたのだけれど、ここへ来てようやく確信を持てた気がする。今回の映画の感想では「自分もいろいろ苦労してきたけれど、映画を観て勇気をもらいました」「重たい内容のはずなのに明るくさわやかで、元気が出た」というようなことを書いた人が何人もいた。
思えば「新宿路上TV」の頃から、そのノリは変わってないのかもしれない。特にホームレス問題については、良くも悪しくも一貫している。かわいそうだったり、ヒサンだったり、という表現を前面に出すことはあまりなかった気がする。出演している人が見ても、野宿者でない人が見ても、元気が出るように作ってきた。特に今、野宿してなくたって皆が大変な暮らしを送っている。問題の根っこは同じ(新自由主義)なわけだから、同情するとか助けるとかじゃなくて、一緒にがんばる、共に笑うという感覚を醸成したくて、今回はかなり狙った。それが見る人に伝わったというのであれば、非常に嬉しい。何年か前、「遠藤さんの撮って来るホームレスはホームレスに見えない」と日テレの局プロに言われたことがある。
当たり前だ。人間として撮ってるんだから。ところが彼は「視聴者が期待しているのは、汚く、だらしのない、みじめなホームレスだし、視聴者はそれを見て優越感を得たいんだ」と力説する始末。まあ、ようするに彼自身がそう思っているということなんだろう。空いた口が塞がらなかった。俺にしてみれば、そんなふうに他者を切り離すようなあり方<スペクタクル>はジャーナリズムではない。だから、今回も「笑顔」がたくさん見られる映画だ。「もっと悲しさの表現があってもいい」などと指摘する人もいたが、そこはそれ、行間を読んでくれよ、という話だ。
野宿する人も、パレスチナの子どももそうだけど、追い詰められている人間ほど、よい笑顔を見せるってこと…なかなかわからないんだろうけど、本当の話だ。さらにもう一つ。
俺にとって映像作りは目的じゃなく手段だってこと。もちろん職業的には制作が終われば仕事は終わりなのだが、ジャーナリストは常にその先を見据えていなければならないと思う。
NEWS ZEROの救急特集では、その後の医療報道の流れを変え、なんとその年の診療報酬にまで影響を与えた。最近では、渋谷区役所駐車場問題のD-TV NEWSが、運動展開の一要素になって、行政にプレッシャーをかけるという成果もあった。こうしたことを意図して「狙う」ようになったのは、過去10年くらいでだんだんと、という感じだけれど、最近は企画それ自体の骨になってきている。それには、アグレッシブな同業の先輩や、いろんな人たちの影響を少しずつ受けてきたという背景があると思う。ちなみに「目的じゃなくて手段なんだ」という明確な発想を教えてくれたのは、薬害エイズ訴訟、薬害肝炎訴訟の陣頭指揮をとった鈴木利廣弁護士だった。弁護士なのに「裁判は目的じゃなくて手段なんです」と強調するわけだから、まあ最初は驚いた。しかし、今思うと、すごく自分のスタンスに近いことを彼は言っていた。というか、たぶん自分の中で彼はロールモデルの一人だったんだと思う。
そんなわけで、今回の「渋谷ブランニューデイズ」にも、映画の完成の先に一つの目的を見据えている。
それがなんであるかについて今は言えないが、どうにかやりぬきたいと思っている。たぶん、今まででもっとも大きく困難な目的だが、映画の完成が折り返し点となって、それはすでに始まった。
どうしても許せないことがある。どうしても変えたいことがある。どうしても作りたいものがある。これから一世一代の勝負をかけていくので、皆さん応援してください。
